巨匠のリクエスト
私が空間デザイナーを養成する専門学校で働いていた時のこと。イギリスから世界的デザイナーを招き、特別授業と会場装飾のイベントを開催しました。滞在期間は7日間。私は彼のサポート役として、滞在中の食事の手配を担当することに。
彼は大変な美食家で、食事にはこだわりがあると聞いていたので、有名店の仕出し弁当やケータリングなど、準備を入念にしていました。しかし、来日した彼からのリクエストは、予想外のものだったのです。
「ダイエット中だから、食事は毎食、低糖のブルーベリージャムと全粒粉のパン、それにサラダとチーズを用意してほしい」私は、少し拍子抜けしながらデパ地下へ直行。
ところが、これが意外にも難題でした。「低糖のブルーベリージャム」がなかなか見つかりません。数軒はしごしてようやく大きめの1瓶を確保。しばらく持つだろうと、他の食材と一緒に学校に持ち帰ったのです。
1食1瓶に追われる毎日
初日のランチにリクエスト通りの食事を出したところ、彼は満足そうにうなずきました。彼の食べっぷりは見事なもので、パンにあふれるほどのジャムを乗せ、次々と口に運びます。あっという間にジャムの瓶は空になりました。もちろん、サラダもチーズも完食。驚く暇もなく、夕食分を調達しに再度デパ地下へ。
さらに翌日も、翌々日も……。買っても買っても瞬く間に消えていく食材との格闘でした。デザイナーに気持ちよく仕事をしていただくためと自分に言い聞かせ、ジャム探しに奔走していたのです。
凍りついた後の爆笑
ある夜のこと、作業の手伝いに来ていた非常勤講師の美玖さん(仮名)が、ジャムをたっぷり乗せたパンを頬張るデザイナーに声をかけました。「いくら低糖でも、そんなに食べたらダイエットにならないんじゃない?」
その瞬間、周囲の空気が凍りつきました。世界的デザイナーに向かって、そんなことを言う人は今までいなかったからです。デザイナーは一瞬だけ沈黙し、そして次の瞬間、「確かにな!」とお腹を抱えて笑い出しました。それは、世界的デザイナーではなく、ダイエットに格闘するひとりの中年男性の顔でした。
その日を境に、彼の食事量は少し減り、低糖ジャムの補充も、毎食ではなく1日置きに。さらに、デザイナーと美玖さんはすっかり意気投合。美玖さんは、イベント当日のアシスタントに指名されたのでした。
信頼に必要なもの
2人が楽しそうに作業する姿を、私は離れたところから見ているしかできませんでした。彼は美玖さんに、「みんな自分の顔色ばかり見て何も言わない。それが一番疲れるんだ」と漏らしていたそうです。
彼の信頼を勝ち得たのは、言われたとおりの食事を出す私ではなく、肩書きに臆せず、フランクに接した美玖さんでした。私は、彼の肩書に圧倒され、自分から距離を作ってしまっていたのです。
相手を敬うことと、対等に向き合うこと。その両方がそろってこそ、本当の信頼関係は生まれるのかもしれません。二人の姿を見ながら、私はしみじみそう思ったのでした。
【体験者:30代・専門学校講師、回答時期:2020年10月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:Sachiko.G
コールセンターやホテル、秘書、専門学校講師を歴任。いずれも多くの人と関わる仕事で、その際に出会った人や出来事を起点にライター活動をスタート。現在は働く人へのリサーチをメインフィールドに、働き方に関するコラムを執筆。

