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人の善意が、ときにプレッシャーに感じることってありますよね。親切と干渉の境界線を考えさせられた、私の実体験を紹介します。育休中に優しくしてくれた近所の人の「善意」が、いつしか息苦しさに変わってしまい……。

最初はありがたかったご近所の優しさ

育休中、外との関わりが減っていた私にとって、近所の今田さん(仮名・60代女性)は明るく話しかけてくれるありがたい存在でした。娘のこともかわいがってくれて、道で会えば立ち話が弾む。最初のうちは、地域にこんな人がいてくれてよかったと思っていました。

親切が少しずつ重くなっていく

けれど親しくなるにつれ、少しずつ違和感が出てきます。「娘さんの次の予防接種はいつ?」と何度も聞いてきたり、「娘さん、先週熱出したらしいじゃない。聞いてないわよ」となぜか家族のように状況を把握しようとします。

また別の日は「リビングにはこういうの置くと良いのよ」と、風水に基づいたアドバイスとともに勝手に大皿を持ってきたり。「本当の娘だと思ってるから」というセリフを免罪符に、今田さんの行動は少しずつエスカレートしていきました。

止まらない干渉、そして救いの一言

さらに、子どものお食い初めや保育園選びまで勝手に口を出してくるようになり、私はだんだん疲れを感じ始めました。そんなある日、「この辺だと〇〇保育園がいいわよ、〇月〇日に見学があるから行ってきて」と言われた瞬間、「またか……」と正直うんざりしてしまいました。

そんな私の表情を見て、その日たまたま遊びに来ていた友人がスッと割って入りました。「あ、こちらの家のことはこちらで決めるので大丈夫ですー! いつもありがとうございます!」と、明るくハッキリ。第三者だからこそ言える一言に、私は心の中で拍手しました。

善意と支配は紙一重

その一件以来、今田さんは少し距離を取り、穏やかな“普通の近所の人”に戻りました。きっと本人も「踏み込みすぎた」と気づいたのでしょう。

人の優しさは、相手の領域を尊重してこそ成立します。善意が支配に変わらないよう、親切にも“境界線”が必要だと痛感した出来事でした。

【体験者:50代・主婦、回答時期:2025年1月】

※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。

EPライター:Ryoko.K
大学卒業後、保険会社で営業関係に勤務。その後は、エンタメ業界での就業を経て現在はライターとして活動。保険業界で多くの人と出会った経験、エンタメ業界で触れたユニークな経験などを起点に、現在も当時の人脈からの取材を行いながら職場での人間関係をテーマにコラムを執筆中。

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