高齢者施設に季節を届ける仕事
フラワーショップで働き始めて1年が経った頃。私は近隣の高齢者施設の談話室に、毎週花を生ける仕事を任されるようになりました。
施設の中でも季節を感じていただけるよう、春には桃や菜の花、梅雨時には紫陽花、夏にはひまわりと、その時期ならではの花を選んでいました。鮮やかな花々が入居者の方々の目を楽しませてくれることを願って、毎回心を込めて生けていたのです。
静かに見つめるひとりの女性
ある日、いつものように施設で紫陽花を生けていると、90歳くらいの女性・Kさんがそばで見つめているのに気づきました。「きれい」微かにつぶやかれたその声に、私は「そうですね、とてもきれいな色ですよね」と声をかけました。するとKさんは、わずかに笑みを浮かべられたのです。
それ以降、Kさんは毎週私が花を生けているのをそばに来て見つめるように。
施設のスタッフの話では、Kさんは認知症で、普段何かに興味を示すことがほとんどないとのことでした。それもあって、スタッフの方々もKさんの変化に驚いていました。
記憶の扉を開いた、バラの花
また別の日、香りの良いバラの花を飾っていた時のことです。Kさんが涙を浮かべているのに気づいた私は、「どうされましたか?」と尋ねました。
Kさんは「きれい」とだけ答えると、ひと呼吸置いて、小さな声で続けます。
「庭にあった。赤いの、白いの、黄色も」
それは、かつてKさんが住んでいた家の庭の話でした。その瞬間、花が記憶の扉を開いたのだと確信しました。普段は言葉の少ないKさんが、バラの花を見て過去の美しい思い出を語ってくださったのです。
花が紡ぐ、心の架け橋
植物には人の五感に働きかけ、失われかけた記憶や感情を呼び覚ます力があると言われています。
私は、Kさんとの出会いを通して、それを身をもって実感することができました。
Kさんの変化は、季節の花々を選び生けるという一見シンプルな行為の奥深さと、仕事への誇りと喜びを私に与えてくれたのです。
花は忘れられた時間と今をつなぐ温かい心の架け橋なのだと、私は今も信じています。
【体験者:60代・会社員、回答時期:2025年9月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:Sachiko.G
コールセンターやホテル、秘書、専門学校講師を歴任。いずれも多くの人と関わる仕事で、その際に出会った人や出来事を起点にライター活動をスタート。現在は働く人へのリサーチをメインフィールドに、働き方に関するコラムを執筆。