電話嫌いの佐藤さん
先輩事務員の佐藤さん(仮名)は、見た目も仕事ぶりもきちんとしていましたが、ただひとつだけ、絶対にやらないことがありました。それは「電話に出る」こと。
その理由は、本人がぽつりと漏らした言葉から察することができました。
「電話って、相手の表情も見えないし、緊張して嫌なんだよね」
そう、佐藤さんは電話がとても苦手だったのです。上司がいくら注意しても、その姿勢が変わることはありませんでした。
そして佐藤さんが電話に出ないことで、日常的にさまざまな影響が出ていたのです。たとえば患者さんからの問い合わせに、他のスタッフが調剤中でも走って対応しなければならず、業務が一時中断される。配達業者や在庫確認の電話が繋がらず、別の人が折り返すなど、二度手間になることも少なくありませんでした。
鳴り響く電話
ある日、薬局が立て込んで、患者さんが次から次へと来局し、スタッフ全員が対応に追われていました。そこに、何度も何度も鳴り響く電話の音。
誰も出られない状況の中、唯一手が空いていたのは電話の目の前にいた佐藤さんだけ。それなのに、私たちが目配せしても気づかないふり。いや、気づいているけど出ない。もはや佐藤さんにとっては「電話に出ないこと」が信念のようにも見えました。
事態を動かした「沈黙の代償」
その数分後、自動ドアが開きました。入ってきたのは、近くにある病院の院長先生。
白衣姿にピリッとした表情で佐藤さんに向かって一言。「さっきから電話してるんだけど、出ないね? 何回もかけたよ?」その声に薬局全体が凍りつきました。急ぎの処方変更の連絡だったようで、電話が繋がらず、しびれを切らして直接足を運んできたのです。
「電話ひとつ出ないようじゃ、信用なくすよ?」そう言い残し、院長は処方箋を置いて足早に去っていきました。佐藤さんは、しばらく呆然と立ち尽くしていました。
苦手と向き合うことで見える景色
翌日から、佐藤さんはまるで別人のように電話に出るようになりました。それまで頑なに避けていた受話器に、今では誰よりも早く手を伸ばします。最初は周囲も驚きと戸惑いが入り混じっていましたが、日を追うごとにその姿勢は本物だとわかってきました。
「苦手だけど、やらなきゃいけない時もあるんだね」ある日ぽつりと、佐藤さんがそう呟きました。苦手なこととどう向き合うかは人それぞれ。佐藤さんは、あの日を境に自分なりの一歩を踏み出したのでしょう。
【体験者:20代・女性会社員、回答時期:2020月11月】
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:miki.N
医療事務として7年間勤務。患者さんに日々向き合う中で、今度は言葉で人々を元気づけたいと出版社に転職。悩んでいた時に、ある記事に救われたことをきっかけに、「誰かの心に響く文章を書きたい」とライターの道へ進む。専門分野は、インタビューや旅、食、ファッション。