怪我を嫌がる母親
私が勤めていた幼稚園では、入園前に保護者から提出してもらう書類の中に「園への要望」欄がありました。園へ初めてお子さんを預ける時は、誰でも不安を抱えるものです。とある保護者・山本さん(仮名・30代女性)も、その欄に「子供に怪我をさせないでほしい」と書いていました。
私はその言葉を、「危険な事故には十分配慮してほしい」という意味だと受け止めていました。ところが数日後、その言葉の本当の意味を私は思い知らされることになるのです。
「怪我をさせないでほしい」の本当の意味
入園から数日後、山本さんの子どもは園庭で走っている最中に転び、膝を軽く擦りむいてしまいました。私は手当てをして、連絡帳で怪我の経緯を説明するという、通常の流れで対応しました。
ところが翌朝、山本さんは険しい表情で職員室へ入ってくるなり「怪我をさせないでって言いましたよね?」と強い口調で詰め寄ってきたのです。その勢いに、私は言葉に詰まってしまいました。
よくある擦り傷程度の怪我が、ここまで大事になるとは思っておらず、私はひとまず対応を相談しようと、急いで園長のもとへ向かいました。
園長が返した言葉
事情を説明すると、園長は慌てる様子もなく「お母さんと少しお話ししましょうか」と静かに席を立ちました。面談が始まると、園長は山本さんの話を最後まで聞いたうえで「では確認させてください。お子さんはご自宅では一度も転んだことはありませんか?」と穏やかに問いかけたのです。
さらに園長は「もし“絶対に怪我をしない方法”をご存知でしたら、ぜひ私たちにも教えていただけますか?」と続けました。私は内心「やった、論破してくれた」とスカッとした気持ちになっていましたが、園長の話はそれだけでは終わりませんでした。
本当に大切なこと
園長は真っ直ぐに山本さんの目を見つめ、柔らかい表情でこう語りかけました。「お母さん、“転ばない子”より“転び方を覚えた子”の方が、将来強いんですよ」その言葉を聞いた山本さんは、しばらく黙ったあと「すみません……私、すごく不安で」と涙をためながら話し始めたのです。
さらに園長は「怪我をゼロにすることではなく、怪我をしながら学ぶ経験と安全の両立を大切にしていきますね」と穏やかに伝えました。帰り際の山本さんは、来た時よりも少し肩の力が抜けたように見えました。
理不尽に見えるクレームの裏にも、我が子への切実な想いや不安が隠れていることがある。そのことに気づかせてくれた、忘れられない出来事です。
【体験者:30代・女性会社員、回答時期:2026年3月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:逢坂 ゆな
ライター業をしながら、実は現役の保育士でもある。その実体験を元にしたエピソードをSNS発信すると好評を得て、執筆者としても活躍するように。幼稚園教諭や歯科受付などの、多彩な職業も経験。読者からの共感の声やお悩み相談、体験談が届き、それらも元に執筆中。育児エピソードや義母・夫とのバトルなど、ママ世代から共感を呼ぶリアルな体験記事が人気。