美しき奥様の「メイク講座」
私が20代後半で転職した法律事務所は、弁護士1人と秘書3人のこぢんまりとした職場。勤務初日、緊張して出勤した私を出迎えたのは、華やかな笑顔の奥様でした。
制服に着替えると、次に案内されたテーブルには大きな鏡。業務説明より先に始まったのは、奥様による「メイク講座」だったのです。
勤務初日に決まった「指定色」
元モデルという奥様は、ベースメイク、眉、アイシャドーと、慣れた手つきで私の顔を仕上げていきます。「あなたには、この色が似合うわね」そう言って最後に塗ってくださったのは、自分では選んだことのない鮮やかな赤の口紅でした。
完成した顔はほぼ別人。いつもナチュラルメイクしかしない私は、鏡の中の自分に少し居心地の悪さを感じたほどでした。奥様は満足そうに「ほら、こんなにきれいになるんだから、ちゃんとメイクしないとダメよ」と微笑み、「入所祝いね」と、先ほどの口紅を手渡してくれたのです。
後日、先輩秘書たちにも、それぞれ「奥様が選んだ指定色」があり、事務所内では、その色をつけるのが暗黙のルールになっていることを知りました。奥様の純粋な親切心からくるものだけに断りづらく、結果、先輩達も「指定色」をつけ続けているのだと。
新人が放った一言
その後、新人秘書の里恵さん(仮名)が入所した日のことです。初日のメイク講座で、奥様がいつものように「里恵さんに似合う色」を差し出しました。すると、里恵さんはためらうことなく、「私には、この色は似合いません」と断言。
奥様は一瞬だけ目を丸くして、すぐに笑顔に戻り、「そんなことないわ。試してみて」と促しましたが、里恵さんは首を振ります。「いえ、この色、好きじゃないんです」側にいた私たちは思わず視線を交わし、ハラハラしながら成り行きを見守っていました。
しかし、里恵さんは平然としています。奥様も「そうね。好みがあるものね」と言って、それ以上は何も言いませんでした。
消えたメイク講座
私たちがずっと言い出せなかった「違和感」に、初日から「NO」を突きつけた里恵さんの姿は、鮮烈でした。それ以来、メイク講座は姿を消し、「指定色」のルールもなくなっていきました。
もちろん、当の里恵さんは、自分が暗黙のルールを終わらせたことさえ知らないのですが、私はひとり心の中でそんな彼女に拍手を送ったのでした。
【体験者:30代・女性会社員、回答時期:2026年1月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:Sachiko.G
コールセンターやホテル、秘書、専門学校講師を歴任。いずれも多くの人と関わる仕事で、その際に出会った人や出来事を起点にライター活動をスタート。現在は働く人へのリサーチをメインフィールドに、働き方に関するコラムを執筆。