和気あいあいとした職場でも、守るべき線はあります。新人の指導を重ねる中、思いがけず揺らいだその「線引き」。きっかけは組織のトップのひと言でした。今回は、私の知人の聡美さん(仮名)の職場でのエピソードをご紹介します。

新人スタッフの「惜しい一点」

社員500名ほどの専門商社で、私が新人育成のリーダーをしていた時のことです。ある日、派遣社員として20代半ばの有美さん(仮名)が配属されました。

明るく、屈託のない性格で、すぐに先輩スタッフたちとも打ち解けます。職場の空気をぱっと和ませる、そんな存在でした。研修にも真面目に取り組んでいましたが、ひとつだけ気になる点がありました。

敬語をほとんど使わず、相手が誰であっても友達のような口調で話してしまうのです。それではお客様からの電話にも出られません。私はトレーナーたちにも、「言葉遣いに気をつけるよう、根気強く伝えてね」とお願いしていました。

「喫煙所のおじさん」

そんなある日、珍しく社長が私たちの部署の前を通りかかりました。すると、有美さんが突然、明るい声で呼びかけたのです。「オス!」

周囲が凍りつく中、社長も嬉しそうに笑って近づいて来ます。「オー、有美ちゃん。ここにいたのか」私たちは思わず顔を見合わせました。

後で「社長と知り合いなの?」と聞くと、有美さんはあっけらかんと答えてくれました。「外の喫煙所で、いつも一緒になる面白いおじさん。社長だったんだ、びっくり〜!」

社長はノリが良く、明るく元気の良い若手社員が大好きなことで知られています。それ以来、社長はときどき部署に顔を出しては、有美さんと親しげに言葉を交わすようになりました。

戸惑う現場の指導

社長と有美さんのフレンドリーな光景が続くにつれ、トレーナー達の間に迷いが生まれてきました。「私たちが一生懸命敬語を教えても、社長があんなふうにカジュアルに話されると……教える意味がなくないですか?」 その言い分はもっともでした。

現場が教える「規律」を、組織のトップが無意識に否定しているような矛盾。現場の混乱をよそに、二人の「オス!」は、その後も変わらず続いたのです。

ガッツポーズの後に……

ある日、社長と有美さんがいつものように楽しげに話していました。「有美ちゃん、研修は順調か?」社長の問いかけに、有美さんは笑いながら答えます。「研修、大変。有美の言葉遣いがおかしいって、直されてばかり」

すると、意外にも社長は軽く頷き、こう答えたのです。「それは当たり前だな。社会人なんだから、ちゃんとした言葉遣いをしないとダメだぞ。しっかり勉強しなさい」

その言葉に、私と指導員たちは小さくガッツポーズをしました。けれど次の瞬間、「オス!」有美さんの元気な声に、社長も満面の笑みで「オス!」

「結局、そこは変わらないのね」 思わず心の中で叫び、私達は顔を見合わせて笑ってしまいました。

【体験者:40代・女性会社員、回答時期:2025年11月】

※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。

EPライター:Sachiko.G 
コールセンターやホテル、秘書、専門学校講師を歴任。いずれも多くの人と関わる仕事で、その際に出会った人や出来事を起点にライター活動をスタート。現在は働く人へのリサーチをメインフィールドに、働き方に関するコラムを執筆。