夜中の温泉
数年前、私は母と2人で海の近くの温泉宿に泊まりました。海風が心地よく、波の音がかすかに聞こえる静かな宿です。私は昔から人混みが苦手で、温泉もなるべく人のいない時間帯に入るのが好きでした。
この日も、母が眠りについてからそっと部屋を出て、夜中の大浴場へ。脱衣所には誰の荷物もなく、私1人。内風呂に浸かり、体が温まったところで露天風呂へと向かいました。
潮風と静寂
外に出ると、夜風に混じって潮の香りが漂ってきます。湯気の向こうに月がぼんやり浮かび、湯面が銀色に揺れていました。「気持ちいいなぁ」と思いながらしばらく浸かっていると、不意に人の気配を感じました。周りを見渡しても誰もいません。それでも確かに、さっきまでとは違う空気。耳を澄ますと、内風呂の方から誰かの話し声が聞こえたのです。
すれ違う気配
「誰か入りに来たのかな? 十分温まったし、そろそろ出ようかな」そう思い、露天風呂を出て大浴場の中へ戻りました。けれど、そこには誰もいません。静まり返った浴場には、水の滴る音だけが響いていました。
「気のせいか……」そう呟いた瞬間、今度は逆に、露天風呂の方から声が聞こえたのです。まるで、すれ違うように。ゾッとした私の心臓は激しく鼓動し、軽くお湯を浴びてから慌てて部屋に戻りました。
母の一言
部屋に戻ると、母が起きていました。私が慌てた様子で入ってきたのを見て「どうしたの?」と聞いてきます。私はさっきの出来事を話しました。母はしばらく黙って聞いていたあと、静かに口を開きました。「ここも、震災の時にたくさんの人が亡くなったからね……」
その言葉にハッとしました。宿の外に広がる海沿いの町も、津波で壊滅的な被害を受けていたのです。母は続けて、ぽつりと言いました。「雪の舞う寒い日だったしね。あの人たちも、温まりたかったのかもしれないね」
ぬくもりを求める存在
怖いと思っていたはずなのに、不思議と心がじんわり温かくなりました。あの時の気配も話し声も、恐怖ではなく、どこか切ないものに思えてきたのです。
あれから何年経っても、あの夜の温泉の静けさと潮風の匂いは忘れられません。きっとあの声は、まだぬくもりを求めていた誰かの“ささやき”だったのかもしれません。
【体験者:30代・女性パート、回答時期:2025年10月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:hiroko.S
4人を育てるママライター。20年以上、接客業に従事。離婚→シングルマザーからの再婚を経験し、ステップファミリーを築く。その経験を生かして、女性の人生の力になりたいと、ライター活動を開始。現在は、同業者や同世代の女性などにインタビューし、リアルな声を日々収集。接客業にまつわる話・結婚離婚、恋愛、スピリチュアルをテーマにコラムを執筆中。