女優になるのよ
私の勤める旅行会社のコールセンターには、多くのお客様から指名で電話が入る小松さん(仮名)という先輩がいました。彼女はいつもお客様と楽しそうに会話をしており、その話術を少しでも真似しようと、私はこっそり耳をすませて聞いていました。
彼女の口癖は「女優になるのよ」です。お客様と話すときは女優になったつもりで演じなさい、という意味で、確かに小松さんの話し方は少しオーバーと思えるほど感情豊か。私は彼女を尊敬しながらも、照れくさくて思うように真似できずにいました。
手配ミスから大クレーム発生
ある日、予約していた料理内容に手配ミスがあり、クレームが発生。スーパーバイザーが対応にあたったものの逆にお客様の怒りを強めてしまい、翌日、小松さんから再度連絡をすることに。
翌朝、出勤してきた彼女の姿を見て、私は息をのみました。普段はほとんど化粧をしない小松さんが、その日は真っ赤な口紅にばっちりメイク。いつも一つにまとめている髪はおろされ、柔らかなウェーブがかかっていました。
「女優」の気合
「このくらい気合を入れないと、クレーム対応はできないわよ」そう言いながらヘッドセットを用意する小松さんは、まさに「女優」そのもの。
「さようでございましたか……お怒りごもっともです」一語一句に感情がこもり、トーンや間の取り方も的確でした。少し芝居がかった表現が、不思議とお客様の心に刺さっていっているのが、小松さんの表情からわかりました。
やがて、お客様のお怒りが「話を聞いてくれてありがとう」という感謝の言葉に変わり、通話が終わりました。
声に宿る覚悟
対応を終えた小松さんは、深い息をひとつついて言いました。「電話ではね、少し大げさなくらいじゃないと伝わらないのよ。もちろん、うわべだけじゃダメよ、心を込めて演じるの」あの赤い口紅はただの化粧ではなく、伝えることに向き合う覚悟のしるしだと思いました。
その後、私もクレーム対応を任されるようになり、どう伝えればいいか迷うたびに、あの赤い口紅の色と「心を込めて伝える覚悟」を思い出していました。
【体験者:60代・女性会社員、回答時期:2025年10月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:Sachiko.G
コールセンターやホテル、秘書、専門学校講師を歴任。いずれも多くの人と関わる仕事で、その際に出会った人や出来事を起点にライター活動をスタート。現在は働く人へのリサーチをメインフィールドに、働き方に関するコラムを執筆。