居酒屋で人気の“季節を感じるお通し”
私が働いていた居酒屋は、個人経営ながら常連さんの多いお店でした。席についたお客さまに必ずお出しするのが “小鉢のお通し”。旬の野菜を使った和え物や、仕込みに手間をかけた煮物など、店主が毎日工夫を凝らしていました。
常連さんからは「今日は何かな?」「これを食べると季節を感じられるんだよ」と楽しみにしてくださる声も多く、私もそれを聞くたびに嬉しく思っていました。
「頼んでない!」と声を荒げるお客さん
ところがある日、若い男性客から思いもよらぬクレームを受けました。お通しを出した瞬間、「え、これ何? 頼んでないんだけど」と強い口調で言われたのです。私は「こちらは席料込みでお出ししているお通しでして……」と丁寧に説明しましたが、男性は納得してくれません。
「いやいや、いらないから。金取るなら下げてよ!」その声は周囲の席にもはっきり聞こえるほど大きく、私は言葉を返せなくなってしまいました。お通しを楽しみにしてくださる方もいる一方で、こんなふうに強く言われてしまうと、どう対応するのが正解なのかと迷ってしまったのです。
場が静まった常連さんのひとこと
一度下がって店長に相談しようかと思っていたところ、隣の席にいた常連のお客さまがすっと口を開きました。「いやなら、お通しがないお店を選んだら? でもこれも居酒屋の楽しみ方だよ」
その声は落ち着いていましたが、店内の空気が一瞬で静まり返ったのを覚えています。頷く他のお客さまもいて、私は心の中で「ありがとうございます!」と手を合わせたい気分になりました。
バツが悪そうに引き下がるクレーム客
強気だった男性客も、そのひとことには反論できなかったようです。さっきまで大きな声を張り上げていたのに、視線を逸らしながら「……そういうもんなんですか」と小さな声でつぶやき、バツが悪そうにお通しを口に運んでいました。
私はほっと胸をなで下ろしました。お通しをめぐって文句を言う人もいれば、楽しみにしてくださる人もいる。常連さんのさりげないフォローがなければ、あの場の空気はもっとギスギスしたままだったと思います。お店を支えてくれる人の存在の大きさを、改めて感じた出来事でした。
【体験者:30代・女性会社員、回答時期:2025年9月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:辻 ゆき乃
調剤薬局の管理栄養士として5年間勤務。その経験で出会ったお客や身の回りの女性から得たリアルなエピソードの執筆を得意とする。特に女性のライフステージの変化、接客業に従事する人たちの思いを綴るコラムを中心に活動中。