出版社で働いていた頃、とある広報案件で出会った女性。そこでの何気ない出来事が、いつの間にか自分にとって小さな楽しみに。
今回は、編集者時代に経験した、モチベーションの源だった人との関わりが変わり、当たり前だったことがなくなった寂しさを感じたエピソードを紹介します。

打ち合わせの始まりに

出版社で働いていた頃の話です。
当時、とある企業の広報案件を担当しており、毎月1度の定例打ち合わせには足を運んでいました。先方のマネージャーである長谷川さん(仮名)は打ち合わせに欠かさず参加していました。
特徴的だったのは、打ち合わせが始まるとすぐ、私の服装に目を留めること。
「グリーン系がよく似合うね」「そのスカート、丈を詰めた?シルエットが綺麗になった」
そんなふうに、服装についてコメントをもらうのが恒例になっていました。
それは褒め言葉のようでもあり、鋭い観察のようでもある。そんな微妙なライン。
けれど、なぜか嫌な気持ちにはならず、不思議と心地よく、どこか照れくさいやりとりでした。

いつしか芽生えた小さな楽しみ

ある日、彼女の言葉を思い出し、薄いグリーンのセットアップを着て打ち合わせに向かいました。すると開口一番、「やっぱりその色が一番似合う」と笑顔で太鼓判。
その一言がうれしくて、それ以来、次の打ち合わせにはどんな服を着て行こうかと考えるようになりました。
服を選ぶ時間が、ちょっとした楽しみになる。仕事とは関係のないところで、気持ちがふわっと明るくなる。そんな時間が、毎月の打ち合わせのなかに静かに根づいていました。

突然のお別れ

ところがある日、企業側から「次回から担当が変わります」と突然の連絡がありました。
次の打ち合わせに現れたのは、感じのいい若い女性。仕事もテキパキと進み、何の問題もない、いつも通りの業務進行。けれど、その人は服のことには一切触れませんでした。
グリーンのトップスも、白のパンプスも、ただの「仕事着」。誰の記憶にも残らないまま、会議室を通り過ぎていきました。
帰り道、エレベーターの鏡に映った自分の姿。そこにふと込み上げたのは、ひとすじの寂しさ。
「今日のコーデ、誰にも気づかれなかったな」そんな独り言だけが、心の奥に沈んでいきました。

淡い寂しさ

もちろん、服のことを言われないからといって、困ることはありません。仕事に支障もなく、むしろ余計な気遣いが減って、気楽になったとも言えます。
それでも、それ以来、打ち合わせ前の服選びにはどこか迷いがつきまとうようになりました。
「これ、誰か気づいてくれるかな」そんな思いが、いつも胸のどこかに潜んでいます。
あの頃のような、小さな楽しみ。自分だけの密かなモチベーション。今もなお、少しだけ恋しいままです。

【体験者:20代・女性会社員、回答時期:2023月10月】

※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。

EPライター:miki.N
医療事務として7年間勤務。患者さんに日々向き合う中で、今度は言葉で人々を元気づけたいと出版社に転職。悩んでいた時に、ある記事に救われたことをきっかけに、「誰かの心に響く文章を書きたい」とライターの道へ進む。専門分野は、インタビューや旅、食、ファッション。