おしどり夫婦
調剤薬局で働いていた頃の話です。毎月決まった頃に薬局に来る平井さん(仮名)というご夫婦がいました。
いつも手をつないでいて、薬を待つ間もどこか嬉しそうに話をしていて、ふたりを見かけるたびに私は「ああ、あんなふうに歳を重ねたいな」と思っていました。
苦労した時期
ご主人はよく、薬局で私に昔の話をしてくれました。
「昔は貧乏で、風呂なしアパートに住んでてさ。冬は台所の水が凍るんだよ」
そんなエピソードを懐かしそうに語る隣で、奥さんが「でも、あれはあれで楽しかったのよ」と笑っていました。
ご主人が起業し、会社が軌道に乗ったのは40代半ばを過ぎてからだったそうです。
「今ようやく時間ができたから、奥さんの“行きたい場所ノート”をひとつずつ回ってるんだ」
そう言って見せてくれたのは、ページのすみまで文字で埋まった手帳でした。
薬局に来るたびに「この間はここの温泉に行ってきたんだ」「ここの花畑を見に行ってきたんだ」などと、嬉しそうに話しながら、その手帳を何度も開いて見せてくれました。そのたびに、私はほっこりした気持ちになっていました。
さよならは、前触れもなく
そんなある日、ご主人がひとりで薬局に現れました。いつも隣にいた奥さんの姿が見えず、私は胸にひっかかるものを感じました。
ご主人がぽつりと口を開きました。
「お風呂から上がったあと、奥さんが横になっていたから、寝てるのかと思ったんだ。でも……そのまま亡くなっていたんだ」
まったく前触れもなかったのだそうです。あんなに元気だったのに、と。
それでも、ご主人の表情はどこか穏やかでした。
「欲しがってたバッグも、ちょっと無理して買ったよ。行きたいって言ってた場所もね、正直、体がきついときもあった。でも……文句を言う相手がいないって、寂しいもんだな」
そう言って視線を落とし、少し間を置いてから「まあ、悔いはないな」と、静かに笑ったのでした。
ふたりの時間が教えてくれたこと
その「悔いはないな」という言葉が、今も心に深く残っています。
きちんと向き合い、きちんと感謝を伝えてきた時間。それが、突然の別れさえも穏やかな記憶に変えてくれるのだと、平井さんご夫婦は教えてくれました。
大切な人に「ありがとう」を伝えることを、当たり前にしていきたい。そんな想いが、そっと心に芽生えた出会いでした。
【体験者:20代・女性会社員、回答時期:2020月11月】
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:miki.N
医療事務として7年間勤務。患者さんに日々向き合う中で、今度は言葉で人々を元気づけたいと出版社に転職。悩んでいた時に、ある記事に救われたことをきっかけに、「誰かの心に響く文章を書きたい」とライターの道へ進む。専門分野は、インタビューや旅、食、ファッション。