午前の静けさを破った小さな音
ある日の午前、外来がひと段落したころ、受付の向こうから「キュッ、キュッ」と布をこする音が聞こえてきました。顔を上げてみると、いつも通っている年配の男性患者さんが、待合室の椅子を一脚ずつ丁寧に拭いていたのです。
ほほえみから一転、思わぬ危険へ
「山田さん(仮名)、どうされたんですか?」と声をかけると、「次の人のためにね、消毒しておいたよ!」と胸を張って答えました。思わず笑いそうになりましたが、手にしていたスプレーを見ると、背筋が凍る思いがしました。
見覚えのない強力な市販アルコール剤で、布張りの椅子は白く変色し、床もツルツルに。他の患者さんが滑りかけ、慌てて支えたほどでした。
決まりごとが守るもの
「お気持ちは本当にありがたいんですが、院内の消毒は私たちの仕事なんです」と、山田さんに伝えました。すると、彼は「そうなの? 悪いことしちゃったねぇ」と、しょんぼり肩を落としてしまいました。
善意からの行動を止めるのは、いつだって胸がチクッと痛みます。もちろん、笑って済ませられればいいのですが、医療の現場ではそう簡単ではありません。消毒ひとつとっても、使う薬剤や手順には細かいルールがあります。そのルールを守ることで、患者さんもスタッフも安全に守られている。そう実感した瞬間でした。
善意が残した白い跡
山田さんが帰ったあと、スタッフの間に残ったのは苛立ちではなく、「いい人ほど、心苦しいんだよね」苦笑まじりの小さなため息でした。
やさしさって、本当に難しい。そうつぶやきながら、白く変色した椅子をしばらく見つめていた午後でした。
【体験者:20代・女性会社員、回答時期:2019年12月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:miki.N
医療事務として7年間勤務。患者さんに日々向き合う中で、今度は言葉で人々を元気づけたいと出版社に転職。悩んでいた時に、ある記事に救われたことをきっかけに、「誰かの心に響く文章を書きたい」とライターの道へ進む。専門分野は、インタビューや旅、食、ファッション。

