穏やかな夕暮れ、いつものアルバイト
地元の小さなスーパーで働いていた頃の話。夕暮れ時ののんびりとした空気の中、いつものように惣菜の品出しをしていました。客足もまばらで、静かな時間が流れていたそのとき、店内に突如として店長の怒号が響き渡ります。
「万引きだあ!」
慌てて振り返ると、高級チョコレートの詰め合わせを抱えた男が猛スピードで逃走。驚いている暇もなく、店長からの「追え!」のひと言で、私の体は反射的に走り出していました。
ぬかるむ田んぼ道、泥だらけの追跡劇
男は店の裏手に続く田んぼ道へ逃げ込みます。一本道で見通しは良いものの、足元はぬかるみだらけ。必死に追いかけますが靴は泥まみれ、息もあがって重い足取りに。
好奇の目で見つめる沿道の農家の方々から「何してるの?」と声をかけられ、「万引き犯です!」と答えるのは、思わず顔がにやけそうになるくらいの気まずさです。
田んぼ道に苦戦しているのは逃げた男も同じ。男が履いていたのはサンダルだったこともあり、次第にスピードも鈍っていきました。
背負い投げで決着、泥まみれの勝負
ついには、ぬかるみに足を取られてよろめく男。次の瞬間、私は高校時代の柔道で身につけた背負い投げを思い出していました。
迷わず背中に飛びつき、一気に男を回転させて田んぼの真ん中に投げ飛ばしたのです。
泥だらけになった男の「うわっ!」という叫び声。しんと静まった空気の中に響いた、近所のおじいちゃんの「強いなあ……」という感嘆の声。まさに勝負の決着がついた瞬間でした。
汗と泥とチョコの記憶、田舎の夕暮れ
その後警察が到着し、連行されていく男。残念ながらチョコレートはぐちゃぐちゃでしたが、商品代金はきちんと弁償されました。私の膝にはまるでその日を物語る勲章のように、擦り傷と泥汚れが残っていました。
今でもあの田んぼ道を通るたび、あの時の泥と汗、そしてほんのり甘いチョコの匂いが、ふとよみがえります。田舎の夕暮れは、何が起こるかわかりません。
【体験者:20代・男性アルバイト、回答時期:2015年7月】
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:miki.N
医療事務として7年間勤務。患者さんに日々向き合う中で、今度は言葉で人々を元気づけたいと出版社に転職。悩んでいた時に、ある記事に救われたことをきっかけに、「誰かの心に響く文章を書きたい」とライターの道へ進む。専門分野は、インタビューや旅、食、ファッション。