店の向かいにある建物
私が働くドラッグストアの向かいには、セレモニーホールがあります。高齢化が進む地域だからか、ホールの前には故人の名前が掲げられていることが多く、時折そこに知っている名前を見つけては、胸の奥が少しざわつくような、そんな感覚になります。お客様の中にも高齢の方が多く、何年も通ってくださっていた方の名前を見つけたときなどは、言いようのない寂しさを感じることもあります。
最近あの人見ないね……
そんなある日、同僚と「最近、太田さん見ないね」と話していました。太田さん(仮名)は60歳くらいの男性で、近くの介護施設で働いている常連さん。毎日のように店に立ち寄っては、レジで冗談を言い、スタッフを笑わせて帰っていく、元気で気さくな人。
「忙しいのかな?」と気にしていた数日後、向かいのセレモニーホールに掲げられた名前が目に入りました。――太田和夫。
まさかとは思いましたが、珍しい名前でもありません。「まさか、あの太田さんじゃないよね……」と、少し不安な気持ちが広がっていきました。
「胃が痛い」と言っていた
その後、別のお客様がレジでぽつりと話した言葉で、さらに不安が増したのです。「セレモニーに出てる太田って人、この前まで元気だったんだよ。俺の一個下のやつだと思う」そのお客様も、年齢的に太田さんと近いように見えます。さらに、別の知り合いからも「介護施設で働いてた元気な人、太田和夫さんっていうらしいよ」と聞かされ、胸がざわつきました。
思い出したのは、最後に見かけた日のこと。「なんか胃が痛いんだよな〜」と笑いながら話していた太田さん。それが体調悪化の前触れだったのかも……と、同僚と顔を見合わせ、しんみりとなってしまいました。
そこに現れたのは……
翌日、私はいつも通り店内で品出し作業をしていました。ふとレジの方に目をやると、そこには信じられない光景が! 太田さんが笑顔でこちらに手を振っていたのです。急いで太田さんのもとへ駆け寄ると、「いや〜、俺と同姓同名の人がこの辺にいたんだなぁ。旅行から帰って来て、看板見てびっくりしちゃったよ」
何も知らない本人は、いつもの調子で笑っていました。そんな太田さんの姿を見た瞬間、心の底からホッとしたというよりは、不思議と力が抜けるような感覚でした。
ただそこにいるだけで
思い込みというのは、時に人の気持ちを大きく揺らします。けれど、そのおかげで改めて感じたこともありました。
「いつもの場所に、いつもの人がいる」――それがどれだけありがたいことなのか。
太田さんがいつものように冗談を言いながら帰っていく背中を見つめながら、私は今日もこの”あたりまえ”を大切にしていきたいと思いました。
【体験者:40代・女性パート、回答時期:2025年5月】
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
EPライター:hiroko.S
4人を育てるママライター。20年以上、接客業に従事。離婚→シングルマザーからの再婚を経験し、ステップファミリーを築く。その経験を生かして、女性の人生の力になりたいと、ライター活動を開始。現在は、同業者や同世代の女性などにインタビューし、リアルな声を日々収集。接客業にまつわる話・結婚離婚、恋愛、スピリチュアルをテーマにコラムを執筆中。